ハンチバック
芥川賞の『ハンチバック』、おもしろかった。作者の市川沙央さんの病気、先天性美緒パチーは初めて聞く病名だった。インターネットを検索してみたら、インタビュー記事が出ていたので、本を買う前に読んだ。インタビューがとてもおもしろくて、この人の書くものを読んでみたい!と思ったので、すぐに書店に買いに行った。
色々考えさせられることはあるけれど、そういうことはおいてといておもしろかった。最後まで読んで、「えっ?」となった。私の読み違い、ではないよね?
おもしろい小説だった。この小説を好きそうな知人がいる。久々に連絡してお薦めしたい。
そして文章が好きだった。「文章が好きだ」というのは、結構重要だと思うようになった。特に私は友人でも仕事相手でも文章が好きな人とは相性がいいい。
さて、作者の市川沙央さんが読書のバリアフリー、と言ったことが話題になったが、私は目が悪いので、電子書籍が普及してきて本当に助かっている。kindleやスマホのアプリで文字の色、拝啓の色、フォントを変更できるのは本当に助かっている。眼鏡をかけてもたいして視力が出ないから、神の本は紙の色やフォント、文字の大きさによって読めない。非常に読みにくい。というか、実際読めない本が結構あって諦めていた。
私は目のことばかり考えていたけれど、市川さんのように神の本を持ってページをめくることに自体に膨大なエネルギーを使う人は、また別の観点から電子書籍が便利なのだな。勉強になった。
『スマホ脳』by アンデシュ・ハンセン を読んで
スウェーデンの精神科医、アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』は、今まで漠然と思っていた様々な不安、懸念等々、明確に肯定してくれるものだった。
スマホを使うようになってから、集中力の欠如、とりわけ
読書中の集中力が非常に低下していることが気になっていた。気になっていると同時に、原因はわかってもいた。
そして、暇な時や疲れている時、絶え間なく画面をスクロールしてはとりとめもなく情報を読み流して頭の中に何かを流し込んでいるような感覚。これが目も頭も疲れさせているのではないか、記憶力や思考力の低下を招
いているのではないかと感じていたが、それも大体外れていなかった。
そして、手で文字を書く行為と、PCで画面に打ち込む行為、紙の本を読むのと
スマホやPCの画面で読む行為の違いにつていも、私が長年抱いていた疑問に納得できる回答が得られたように思う。
スマホやPCは便利な道具だが、「便利なように使う」ことができてこそ生きるものであって、なくてはいてもたってもいられないようでは本末転倒だ。
私にとってもスマホはすでに「掌に収まる私の部屋」みたいなもので、聯絡を取るツールであり、ドラマや映画を見るテレビであり、図書館であり書店でもある。そしてノート、メモ帳、SNSを楽しむ娯楽でもあり、この小さな道具はとても大事な私の世界だ。私の好きなものがたくさん入った大切なものになっている。
先日、スマホが故障して代替機を借りたとき、あまりの不便さと喪失感に驚いた。そしてたった2週間だったのに、代替機の中に私の部屋を作り上げ、その仮の部屋を完璧に整えずにはいられなかった。
この本を読んでいちばん気になったのは、スマホの普及と鬱との関連性だ。スマホとSNS利用率の増加と鬱の増加は偶然ではなにだろう。
それと第7章の「バカになっていくこどもたち」だ。
これは自分で使ってみて実感として「こどもには使わせたくない」と感じていたからだ。幸か不幸か私にはこどもがいないので、悩むこともないのだが、スマホを使っている時に感じるのは、あまり頭を使っていないなということと、このツールは非常に「受け身」なメディアだなということだ。タブレット学習などは小さなこどもの学習方法としては不向きなのではという印象が拭えないのだ。
スマホやPCは楽しい道具だし、とても便利だ。
生活の中に取り入れて便利に使いたいが、使い方についてはきちんと考えてうまく付き合いたいものだと思う。
疲れ切った月曜日に思ったこと
完全に緩み切っている雰囲気はあるけれど、相変わらず毎日少しずつ感染者が出ている。
明日は我が身と思って気を付けて過ごさなければ。
GWは、たぶん夫が実家の両親の様子を見に東京に行かなければならない。
ふたり動くよりは一人の方がましだろうから、私は行かないつもりだけど。
会社で嫌なことはいろいろあるが、ふと気付いたのは仕事のこととは関係ないちょっとした雑談や、耳に入ってきた言葉なんかがいちばん気に障る。
よくよく聞いていると、客先の担当者のことを「おばちゃん」と言っていたり、「お姉ちゃん」と言っていたりする。聞いていて何となくカチンとくる。それはたぶん、それを口にする(多くの場合)男性たちが客先の男性担当者のことをおじちゃんとか、じいさんとか、お兄ちゃんとか呼ばず、名前で呼ぶことが多く、特に「おばちゃん」という言葉を使うとき、どことなくその人を下に見ている雰囲気があるからだ。
それに、年齢や容姿をネタに冗談を言われるのも、あとあとまで気分が悪い。私自身のことに限らず、他の人のことでも、だ。だいたい私と同世代の男性の年齢のことは何も言わないのに、私の年齢だけをネタにするのは明らかにおかしい。
冗談を口にする男性たちは、はげたり、腹の出た中年男性だったり、たいして容姿の優れていない冴えない男性だっり、特にどうということもない人だ。申し訳なくて、とてもじゃないけど、容姿をネタになどできない感じの。
先日口を滑らして「まあ、女性にはあまり持てないタイプなんじゃないの」と、ある同僚のことを言ったら、他の同僚男性が「それはひどすぎるでしょう」と即座に避難してきた。あんたら、いつも言っているでしょと突っ込みそうになった。
男性たちのあの自信はいったいどこから出てくるのだろう。不思議だ。
私のこれまでの社会人経験では、実は女性の上司の方がはるかに優秀で、はるかに頼りがいがあり、信頼できた。男性は意外と陰険だし、保身に走る人が多くて、簡単に人を貶める。女同士は大変、とかよく聞きけれど、私の目から見れば、男同士の方がはるかに色々あって大変そうだ。
いつか、コンプラに通報してやりたいなと思いながら聞いているのだけれど、ほんと、奴らは一生わからないままなのかもしれないなあと思うこともある。
3月末の忙しさを超えて
明日(すでに今日)からは、4月。年度初めだ。
ひとまず、この1年間をどうにかこうにか乗り切った。そんな気分。
今年は人の異動もないので、幸いにもあまり慌ただしくない年度末だった。落ち着いて新年度をスタートできることはありがたい。
月末を終えたものの、後回しにしている急ぎの仕事はいくつもあって、明日、明後日は正念場。何だかんだと結局のことろ、そこそこ忙しいのだ。
この2か月ほど、スマートバンドを使用して、睡眠と歩数を計測している。運動不足解消と、寝不足解消のため。いちばん計測したかったのは、睡眠の質だ。
もともと寝つきが悪くて睡眠が浅い。不眠症といってもよいと思う。(実際には、慣れていて困っていないので、そういう自覚はない)
あまり繊細そうには見られないけれど、たぶん人が思っているよりは、繊細というか何か神経質な部分があるのだろう。よく眠れるな、と思ったのは、仕事をせず、家にいた時だったから、人と会うこと自体が苦手なのだと思う。子どものころから人の輪に入るのが苦手で、幼稚園も嫌いだった。小学生になって、いろいろな人と仲良くすべき、積極的になるべきと「習った」から、それなりに社交的な振りはできるけれど、今も集団の中にいるのはとても苦手で、実は教会でも人と一緒に何かするのはけっこう負担に感じてしまう。
かといって、周りの人が嫌いなわけでもなくて、単に他人との距離感とか、集団の中での立ち位置だとか、そういうものをとらえるのが苦手だといえばよいだろうか。
昨年『実は内向的な人間です』という本を読んで、なるほど、私は内向的だったんだなとわかった気がした。要するに、そういうことなんだろう。
だから、幼稚園の時からずっと、夜は眠れない(疲れているけど、脳が興奮状態??)し、出不精だし、人と会うと異常に疲れる。親しい友人とのごく少数の食事なんかは好きだけど、そこまで親しくない人との集まりなんかだと、出会いにわくわくすることなんて一切ない。行くと決めた時からストレスがどんどん溜まる。
自分がどんな人間なのか理解して、必要以上の無理をしないでやっていけるように工夫をしたいと思う。
朝の読書
この教皇フランシスコの講話集を毎朝少しずつ読んでいる。
私はプロテスタントの信徒なので、カトリックのローマ教皇の書いたものをあまり読んだことがなかったのだが、先日読んだ若松英輔氏の『いのちの巡礼者ー教皇フランシスコの祈り』でローマ教皇の言葉に触れて、教皇フランシスコの言葉を聞いてみたくなった。
教職者たちは、カトリックとプロテスタントは全然違うと言うけれど、一信徒でしかない私には、その違いはあまりわからないし、正直なところ、わからなくてもよいと思っている。
聖書が正しく教えられていれば、良い。
信仰と信仰に生きることの本質を教皇はやさしい言葉で教えている。私自身の揺れ動く心を聖書のことばをとおして整えてくれるこの講話集を日々楽しみに読んでいる。
今年は、あまりカトリックだとかプロテスタントだとか、枠に捉われずに色々な信仰所を読んでみたいと思っている。信仰生活を見直し整えて、私にできることを見つけたい。厳密にいえば、私にできることを神に教えていただきたい。
今朝読んだところは、偶像礼拝についての話だった。
私の生きる機軸となるもの、それが偶像である。私は神と神の言葉によって生きているか?
私にとって、もっとも足りない資質
は、人とかかわること。愛を以て人とかかわること。私は人間関係に臆病で、人が苦手だ。幼いころからずっと。
大人だから、それなりに表面を取り繕うことはできるけれど、本当はとても人が苦手だ。3年通っている教会の数少ないメンバーとすら、打ち解けた感じがしない。いまだに慣れない。
そして、出不精で、知らないところへ行くことが嫌いである。
環境が変わるのも、本当に苦手だ。
こういう私に「愛を以て」人にかかわることなどできるのだろうか。
もしやクリスチャンとして失格なのでは?これはもう長年、心の奥底にある問いだ。