「女の子だから」
とてもすてきな本を読んだ。
小さな娘がいるともだち皆にあげたい。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『イジェアウェレへ フェミニズム宣言、15の提案』だ。
女の子だから、男の子だから、そんな言葉は口にすまいと決めているけれど、つい言ってしまうことがあるのを認める。
私のどこかに、そういう固定観念があって、意識していないと「女の子だから」「男の子だから」という基準で物事を判断してしまうことがいまだにあるし、あるべき「女として」のあり方に無意識に合わせていることがある。そうできないと、罪悪感を覚えることも多い。
それに結婚して以来、基本的に家事は私の「仕事」になっている。
頼めば、手を貸してはもらえるけれど、頼まなければ私が管理し、私がやる。
それはたぶん、私が女だから、だ。
大学生の頃、「女性学」とフェミニズムに出会った。
学んだから、色んなことに気づくようになり、気になるようになった。
世の中がどれだけ差別と偏見に満ちているのか。
男性優位な社会は、私たちにとってあまりにも普通で自然なことになっていて、たとえ納得していなくても何となく迎合して生きている。そういうものだと頭のどこかで思っているから。
経済力のなさも、社会的な地位の低さも、その根底に差別があるからだ。
けれども、どこかで私の努力と能力が足りないからなのだと罪悪感を覚えている。男性の何倍もの努力が必要だということそのものがおかしいのに。
働くのにも生きるのにも。
男性は好きなことを口にする。
女性の容姿や年齢を平気で公の場でネタにして、何かをさせない(あるいは「できない」)理由として「女だから」と言う。
男だからという理由で課せられている多くの重荷を私だって知っている。
それは理不尽なものだとも思う。
けれどもその一方で彼らはあまりある恩恵をも手にしている。
大人になってから感じるのは、女であるという理由で手放さなければならない様々なものがどれほど多いかということだ。
もちろん、私たち女性も「女であること」を利用して楽をすることもあるかもしれないけれど。
この本に書いてあるようなことを小さな頃から教えられ、そのように扱われたら、女性はどんな大人になるんだろう。
大人になってから学んで身に付けるのではなく、小さな頃から教えられ、実際にそう扱われたなら、人はどんなふうに成長するのだろうか。