あのころはフリードリヒがいた
約30年ぶりに再読したハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』。
1925年にドイツの同じアパートに生まれた2人の少年は、ひとりがドイツ人、もう一人(フリードリヒ)がユダヤ人だった。幼友達として家族ぐるみの付き合いを重ねる2つ家族だが、1933年にヒトラーがドイツ帝国首相に就任した時期を境に大きく運命が変わっていく。
ユダヤ人迫害は年々ひどくなっていくが、二人の少年は相変わらず親しい友人同士だ。
しかし、ドイツ社会は次第にユダヤ人を激しく排斥していくようになる。子どもたちは幼いころから反ユダヤ主義を叩き込まれ、大人たちも生活のためにナチ党への入党を余儀なくされていく。個人の思想信条よりも国の政策に従わざるを得ない状況は年ごとにひどくなっていく。主人公の父親も、入党したことによって長い失業状態から脱することができた。
日々自由を奪われていくユダヤ人の中にも、フリードリヒの父のように「この20世紀に(かつてあったような迫害は)起こり得ない」と言い、ドイツに留まる人々もいた。もちろん、経済的な理由から留まらざるを得ない人々も多かったはずだ。
主人公にとってフリードリヒはユダヤ人である前にひとりの少年であり友人だ。しかし、その一方で彼が幼いころから教えられてきた反ユダヤ主義は確実に彼の中に育っている。周囲の人々への同調、恐れなどから、主人公もユダヤ人迫害行為と無縁ではない。
フリードリヒ一家と主人公一家は周囲の目を気にしながらも、物語の最後まで友人であり続けるが、当時のドイツ社会でそれがどれほどの困難であったかを感じさせられる。
私自身も彼らと同様の人間であり、世の中が変わった時、自分がどういう選択をするのかわからない。「こうありたい」と願う姿は明確にあっても、守るべきものがあるときに、正しい選択ができるだろうか。
この物語を初めて読んだ頃、このような問いが切実に自分に向けらる日が来るとは思っていなかった。子どもだったこともあるけれど、日本はそういう時代を過ぎたのだと思っていたからだ。それは過去の過ちであり、すでに克服したものなのだと。
だが、今、ここに描かれた社会は私の目の前にあるのではないかと言う気がする。
私がどちら側に立つことになるのかはわからない。
けれども、今、国や社会が徐々変わりつつあることを感じている。
そして、それは決して良い方への変化ではないことも。
希望や願望で、現実から目をそらして「そんなことは起こらない」と思うようなことだけはしたくないと思う。